BOOK INFOMATION
家にいる時間が少なくなると、それまで全く気にしていなかったことや急ぎでもなんでもないようなことが、気になって気になって仕方なくなったりする。
大昔、付き合っていた男と休みのたびに会うのが暗黙のルールになってしまったことがあったのだが、その頃あたしは土曜の朝になると決まって、なんでだか布団を干したい欲に駆られていて、「布団が干せないのなら布団乾燥機を買うべきか!?」と本気で考えたりした。
天気の良い週末に布団を干したくなるのは至極当たり前の感情だとは思うのだが、当時のあたしは既に、陽の当たらないコテコテの汚部屋の万年床で寝起きするような人になってしまっていたから、天気のいい週末に何も用事がなかったとしても布団を干したことはなかったし、その男と別れて早速布団を干したかというと、それもない。
実際のところ、その男と別れて最初の週末にやったのは惰眠で、翌週は、土日続けて朝から晩まで雀荘にいた。
つまり、どうもあたしは、ひとりの時間が減ることにより、わけのわからない焦燥感を生み出してみるタチらしい。
さて。
ここ数ヶ月、平日週末問わず、家にいる時間が極端に短くなったあたしの気掛りは専ら「お箸」だった。
確かに、長年使っていた箸の先の塗りが剥げてはいた。
でも、たとえばそれで唇を傷つけたとかいうわけではないし、そもそも、暫く自宅で食事が出来ていなかったのだから、仕事が落ち着いたらゆっくり新しい箸を買いに行けばいいだけのことだ。
そう頭では判っているのだが、でもなんでだか家のことを考えるたび、「新しいお箸を買わなくちゃ!」と軽く焦っていた。
そんなある日のこと、風呂と着替えのために家に帰ると、トイレの便座カバーがピンクのに変わっていた。

(マナーとしてぼかしてますが、我が家の便器はなぜか綺麗。小人の仕業か?)
まあ、長期間あたしが替えてなかったから夏目父がやる気になるのは理解できるけど、それにしても、家にピンクの便座カバーなんてあったっけ?
ねえよ。
もしかして夏目父が買ってきた?
いやいや、ヤツにこの手の買い物が出来るハズはないから、きっと、使わないまま家のどこかにあったのを見つけたんだろうなあ。
洗ったやつがちゃんとあるのに、それは見つけないでこっちを見つけちゃったんだろうなあ・・・・。
くらいに思っていた。
そしてまた別のある日。
深夜に帰宅し、コーヒーを淹れるため真っ暗なリビングの灯りをつけると、テーブルの上になんとも微妙な物が乗っていた。

(どう薄目で見ても菊)
墓参りに行くたびに夏目父は、墓地のあちこちに雑草よろしく生えている菊の葉っぱを引っこ抜いて持ち帰りベランダで育てているのだが、これまでは、それが咲くと仏壇に供えるのが常だったから、ガラスの瓶に挿してリビングに置いているのは見たことがなかった。
というか、菊=供花のイメージがあるせいか、飾るための花としては最も相応しくない気がするんだが。
ああ、もしかして、綺麗に咲いた自慢か?
源平蔓のときみたいに大騒ぎしたいのに、なかなか娘と顔を合わせないから、見せるために飾ったとか?
・・・・と、家にいることが少なくなっていた数ヶ月の間、こういう、夏目父らしからぬ行いをたびたび目にして、そのたび頭の中はクエスチョンマークで埋め尽くされた。
が、あたしがそれらを目にするのはたいてい深夜で、風呂に入ることや1分でも多く眠ることが先に立ち、だから翌朝には忘れてしまっていた。
そんな状態からようやく抜け出した先週、まともな時間に帰宅できたので、ものすごく久しぶりに家で晩ご飯を食べることにした。
既に食事を済ませていた夏目父は、あたしが今にもスキップしそうなくらいのテンションで茶碗にごはんをよそうのをリビングの定位置から見ながら、「外食のほうがいいじゃない」とか何とか、ぼそぼそとツッコミを入れていた。
「外食ばっかだと、卵かけごはんとか明太子とか納豆とか食べたくなるんだよ」
「納豆はないよ」
「・・・・昨日の夜中に4パック買って帰ってきたんですが」
「今朝2パック食べて、さっき2パック食べた」
「相変わらずの納豆セレブっぷりですなあ」
「明日の朝食べる納豆がない」
「残念だね」
「とても残念です」
「明日の朝の分、とっておけばよかったのに」
「そういうことは出来ないの」
「娘の分をとっておくことも・・・・」
「出来ないの」(即答)
納豆ははなから残ってると思っちゃいなかったから、卵かけごはんを食べることにした。
ごはんを窪ませて、卵を割る。
・・・・と、夏目父が突然立ち上がり、「あ、新しいお箸!」と言った。
「へ?」
「このあいだ、ブラックオリーブの缶のプルタブ開けるのに使ったら折れちゃって」
「・・・・「折っちゃった」の間違いだろ」
「思いっきりやったわけじゃないのにポキンと折れちゃって」
「・・・・なんでそういうことを人の箸でやる」
「だって俺の箸が折れたら困るもん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「で!」
「あ?」
「探したら、キミにぴったりの箸がありましたー」
「探したら?」
「食器棚の中見たら、結構使ってない箸があったんだよ」
「ほう」
「その中でもキミにぴったりの箸を用意しといたので、これからはそれを使ってください」
「・・・・侘びのつもりでしょうか?」
「侘び?なんで俺が」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「だってずっと前から、塗りが剥げてるから買い替えるとか言ってたじゃない」
あたしが箸の塗りが剥がれたと口にしたのは繁忙期に入る前のことだったから、夏目父がそれを覚えていたのは意外だった。
そして。
関係ないような、興味の無いような素振りをしつつも、実は意外と、いろんなことを気にかけている人なのではないかと思った。
その気になれば何でも自分で出来る人なんじゃないか、とも。
そもそも、便座カバーを取り替えることすらしない人だったし、菊にしたって、切って仏壇に供えるのはあたしの役目だった。
仏壇に供えるまではやらずとも、やって貰える当てがなければ、切って水に挿すくらいは自分でやるんだ、うちの親って。
そんなことをグルグル考えながら突っ立っていると、夏目父は食器棚の引き出しを開ける手を止めて、「ああそういえば」と話し始めた。
「仏壇の花の水ってどこに捨てるの?」
「へ?」
「なんか、暖房つけっぱなしでいたらでろでろになってた」
「・・・・水替えてくれって言ったのに」
「だから、替えようとしたら、花も水もでろでろになってて」
「どこにって、普通に台所に流してるよ」
「でろでろは?」
「三角コーナーにじゃーっとやってる」
「でろでろが三角コーナーにあったらイヤじゃない?」
「それがイヤだから、そうならないようにマメに水替えるの。三角コーナーに入ったでろでろは新聞に包んで冷凍室」 (我が家ルール)
「ああ、そういうこと」
「で?花はどうなってるの?」
「水がでろでろだったからトイレに流そうとしたんだけど、便座カバーにびゃーっとなっちゃって」
「・・・・だからカバー替えたのか」
「そう。あのカバー探すのに4時間かかった」
「・・・・探し下手だな」
「で、結局見つからなかったから、○○(徒歩3分のスーパー)で買ってきた」
「は?」
「で、疲れたから、花瓶はそのまま、仏壇のところに戻した」
「・・・・えーっと、なんでそうなりましょう?」
「それから、花を買い忘れたので菊の花を切りました」
「なのに、仏壇には供えてねえ、と」
「惜しい惜しい!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
惜 し い 惜 し い ! っ て 、 ど ん だ け 自 分 に 甘 い ん だ 。
ここまでで既に、持っていた茶碗を落としそうなくらい脱力したのだが、本当に脱力したのはこの後である。
「仕事呆けてる娘に・・・・」
「遊び呆けてるみたいに言うなよ」
「仕事にかまけて」
「言い直しても悪意を感じるなあ」
「仕事にかまけて仏壇の花の水替えを怠けた娘に」
「・・・・おうこら。いい度胸してんじゃねえか」
「今以上の災いが降りかからないような」
「災いの100%は親がせっせと降りかけてるんですが」
「素敵な箸を見つけましたー!じゃーん!」

センスはどうであれ、一瞬、「ああ、こんな人でも箸を準備してくれたのは本当なんだ」と感謝しそうになった。
が、金で書かれた文字を見て、今度は膝の力が抜けそうになった。

(萎えるネーミング)

(へ?)

(あ゛?)
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ずっと前に初売りの景品で貰ったやつだけど、幸福になれる箸だよね!下の字は気にしないで。まあ、オヤジっぽいから「お父さん」ってのもアリっちゃアリだし。うひゃひゃひゃひゃ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「あー、あとさ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「それ食べたらでいいから納豆買ってきてね」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
て め え が 行 け 。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
て め え が 行 け 。
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